November 24, 2005
第12回(最終回):鮪蔵との甘い日々、これから
出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 by shibizou
こうして鮪蔵との安住の地を手に入れた私であったが、機械式駐車場というのはなかなか難しいものであると実感する日々でもある。
まず、平置きならあり得ない「出庫待ち」にブチ当たってしまうのだ。うちの駐車場は、パレットを呼び出してから出てくるまでに余裕で5分くらいの時間がかかる。タイミングが良ければいいのだが、駐車場に行った途端に別の住人が操作板に今まさにキーを差し込んでパレットの番号を打ち込んでます、という瞬間によく遭遇する。そこは集合住宅に住む宿命で、笑顔で「ごゆっくりどうぞ」と待っていなければならない訳だが、この待ち時間がとてつもなく長く感じる。
そして、前回もちらっと書いた通り、車を車庫から出して路上に出るまでにまた時間がかかる。
そして高速に乗ろうとすると、バカナビは何処が目的地であろうと、必ず同じ入り口に行けと指示を出してくる。ムカつくが、私はまだまだ残念ながらこの辺の道路事情に詳しくない。なので、毎度おとなしくナビの言う事に従わざるをえない。
それでもめげずに私と鮪蔵は、新しいお散歩スポットを探す日々を送っている。
と言いつつ、今一番お気に入りの散歩コースは首都高だったりする。
前より住処が都心に近くなったせいもあって首都高に乗る機会が増えたのだが、以前は「狭い怖い絶対乗りたくない!」と思っていた道なのに、一度乗ったらこれが楽しくて楽しくて仕方ない。
思えばそうだ、まだアメリカにいた頃、一時帰国して空港からタクシーでホテルに向かう時に乗る度に「いつかは鮪蔵と走ろう」と怖々ながら決意していた約束を、今の住処に引っ越してやっと果たした事になる。
昼でも夜でも楽しい。ボストンにはあり得ない遊園地の様な街並の中を、私と鮪蔵は、一緒にジェットコースターに乗っているかのような気持ちで通り抜ける。景色はちょっと違うけど、ボストンのストロードライブを思い出させる曲がりくねった狭い道でもある。
自然を堪能したい時は、茨城まで足を伸ばす。偶然見つけた小高い山からの景色がとてつもなく良い。対向車も後続車もまず殆ど無いので、途中途中鮪蔵を止めながら写真を撮りながらのドライブが出来る。直近の写真ではないが、この景色に巡り会った時、私は、鮪蔵を日本に連れて来て良かったと心から思った。
マサチューセッツも、ニューイングランドもそれは素晴らしい景観が沢山ある所ではあったが、日本には日本の美しさがある。道が狭いからこそ、木の枝に触れながらのドライブも出来るし、木の枝のトンネルをくぐり抜ける事も出来るし、車体と花がこすれたりすることもある。
鮪蔵に寿命が来るまで、あとどのくらい日本のあちこちに連れて行けるのだろうかと思いあぐねる。
せっかく連れて来たのだから、鮪蔵が日本に来て良かったと思える生涯を送って欲しいのだ。
今は、私の仕事の関係で、その時間の殆どを駐車場の中で過ごす生活を強いてしまっているが、その分を週末に取りかえす。
そして、この連載中の10月5日、鮪蔵は5歳の誕生日を迎えた。
5周年だし、ということで、私は鮪蔵へのお誕生日プレゼントとして全塗装をかけた。
もちろんその間、鮪蔵とのドライブはおあずけだった。部屋に帰って来ても真下に鮪蔵がいないという生活はとても寂しかった。しかし、5年という年月、そのうち10か月は屋外駐車を強いたせいで痛んでしまった鮪蔵が美人に戻る為なら、と、耐えた。
塗装が終わったのは10月15日だった。
カーショップの人は納車してくれると言っていたが、敢えて私は鮪蔵を迎えに行った。そうしたら、ショップのガレージの一番目に付く所で鮪蔵はちんまりと私を待っていた。ぐるりと360度、鮪蔵の周りを歩いた。特徴になっていたリアバンパーの傷も、駐車がヘタなせいでこすってしまった左フロントドアのバンパーも、左リアドアの凹みも綺麗に直っていた。新車同然に生まれ変わっていた。
嬉しくて飛び上がる程だったが、あいにく、その帰り道は夜でしかも視界がとても悪くなるほど強い雨の日だった。塗装したての鮪蔵をこんな天気の中連れて帰るのは嫌だったが、だからと言って天気が良くなる日を待って引き取るなんて寂しい事はしたくなかったので、その日に連れて帰った。
が、ここでまたバカナビが活躍してくれた。都内を走っていれば家に到着するはずなのに、気が付いたら埼玉まで行っていたのだ。あり得ない。しかも視野はどんどん悪くなっていく。塗装をかけてもらっている間のブランクを考えると危険なドライブだったが、何とか頑張って家にたどり着いた。
そして、久々に鮪蔵は自分の家に戻った。もちろん一度で私がパレットに収められる訳がなく何度も切り返したが。
シャッターを降ろす瞬間がとてつもなく侘びしい。この寂しさは何度やっても慣れない。シャッターが降りきるまで私は鮪蔵に手を振る。その光景を目撃されたらきっと変な人だと思われるだろうが、私は構わない。そのくらい鮪蔵が好きでたまらないのだ。
シャッターが降りてもなかなか駐車場を離れられないのが現状だったりするのだが、涙を飲んでいつもその場を離れる。その場を離れても、鮪蔵は私の部屋の真下まで、すぐ近くまで来てくれるのだからいいのだ。視覚的に確認出来なくても、この床のすぐ下に鮪蔵がいる、そう思うだけでとてつもなく暖かな気持ちになれる。
ひとつ残念なのは、鮪蔵がいるパレットが、リビング側ではなくキッチンやバスなどの水回り側にあることだ。故に、平日に鮪蔵と一番近くにいれるのはお風呂の時だったりする。湯船に浸かりながら下の方に向かって「鮪蔵〜」と手を振る私はきっと変だろう。でも、それでもいいのだ。
これからずっと、お互いどちらかの寿命が来るまで私たちは一緒だ。他のライターの方達の運転歴、車歴に圧倒されながらの連載だったが、私は、鮪蔵の最初で最後のオーナーとなり、そして、鮪蔵が最初で最後の車だと決めている。他の車では、同じシビックでもダメなのだ。鮪蔵でなければ私は嫌なのだ。
この親バカ連載を最後まで読んで下さった皆様、本当にありがとうございました。
そして編集部の皆様、この素晴らしい機会を与えて下さって、ありがとうございました。
銀の左ハンドルのシビックと何処かですれ違ったら、確実にそれは私と鮪蔵です。どうか、暖かく見守ってやって下さい。
text by shibizou | 2005.11.24 | [ 出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 ] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
November 17, 2005
第11回:親バカクライマックス
出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 by shibizou
鮪蔵が日本に来て屋外駐車を強いた時から覚悟はしていた事だが、外に止めっぱなしにしておくことで受けるダメージは想像を超えていた。
内装に関しては、カーショップであれこれ日よけ対策グッズを買ったりしたり、アメリカから持ってきたアーマーオイルが染みこんだペーパータオルで拭いたりして凌いだが、外装に関しては全くをもって手が打てなかった。
幹線道路沿いの駐車場に止めていたので車体がすぐ埃だらけになる。そこに雨が降るとすぐに泥の水玉模様がつく。
そして暑い夏が来て、鮪蔵の塗装に細かいヒビが入ってきたのを見つけた。強い日差しにやられたらしい。このまま屋外駐車を続けたら、かわいい鮪蔵はどうなってしまうのか、それを考えるといてもたってもいられなかった。
一日でも長く綺麗な姿のままの鮪蔵でいて欲しい、そう思い詰めた私は屋内駐車場を借りることを考えたが、今の生活資金では毎月とてもそんな出費は出来ない。
そこに、昨今の独身女性のマンション購入ブームの話が聞こえてくる。そうだ、マンションならうまい物件を見つければ、今払っている家賃並のローンの支払いで買えるだろうし、屋内駐車場が付いてくるだろう、そう考え、帰国して半年も経たないタイミングで、私は物件を探し始めた。
しかし、最初のうちはやはり躊躇しながらだった。どのくらいの予算の物件だったら今の家賃程度の出費で抑えられるのか、自分の手が届くのか、そしてなるべくなら、通勤時間も今より短くしたい、そういう私の都合に合う物件なんてこの世にあるのか、と思っていたら、探し始めて5ヶ月後、夢の様な物件の話が私の耳に飛び込んできた。
最初は、駐車場完備という物件の資料請求をしたのだが、それについては全く連絡が無く諦めていた年が明けたある土曜日だった。私が資料請求したマンションの近くに別の物件が建ったので、それを見学に来ないかという話だったのだ。よくよく話を聞くと、私が最初に興味を持ったマンションの駐車場は屋外で、しかし、その時案内された物件の駐車場は、全戸分は無いとはいえ屋内駐車場なのだという。
自走式でないことがひっかかったが、私は次の日に見学に行くことを約束した。そして迎えた日曜日、現地に赴いた。とにかく駐車場を早く見せてくれという私を制し、担当者が説明を始める。いや、とにかく私のプライオリティは駐車場なんです、と言うと、マンション全体の間取り図を見せてくれた。それを見て激しく心が動いた。何と、立体駐車場の上に独身女性向けの部屋があるではないか。つまり、鮪蔵を空中に止めておくという危険はあるが、そのパレットが部屋のすぐ下に、つまり、鮪蔵の上で毎日の生活を送れるという事なのだ。アメリカにいた時など、同じ敷地の中に駐車場があっても歩いて5分かかるとかそんな遠くに鮪蔵を置いての生活だったのに、この物件を買えば、その距離は駐車場の天井と部屋の床下を足しただけのわずか数メートルになる。しかも都合が良いことに、その駐車場の真上の部屋にはまだ買い手がついていないという。早速部屋を見せて貰ったが、この間取りがまた良かった。通勤も、駅まで歩く距離は長くなるが、オフィスまでドアtoドアで40分という短さ。お風呂も広い、キッチンも広い、何より、一番上の駐車パレットを借りれば鮪蔵と至近距離で生活出来る。そして、計算して貰った月々のローンと管理費と駐車場料金の合計が、今払っている家賃と駐車場代より1万円強安くなる。そんなおいしい物件を買わずにいられるだろうか。
私は即決した。鮪蔵と自分、両方の為に、これほどの物件は、これ程鮪蔵と近くにいられる物件にはもう巡り会えないだろうと思い、その一カ所を見ただけで決めてしまった。
契約に入るとなると、担当者よりもっと偉い人が登場し、お礼を述べてくれた。その人の耳に、私の駐車場に対する固執ぶりが相当大げさに伝わっていたらしく(実際部屋はどうでもいいから駐車場を必ず貸して欲しいとばかり言っていたいのだが)、「では、お客様が駐車場に住んで、お車をお部屋に止めておくというのでもいいのですね」という冗談を言われてしまった。ええ、その位の勢いでないと、駐車場借りたさにマンションを買うなんてバカは致しませんから、と言い返したかったがその場は笑って事を納めた。
次にそのマンションに足を運んだのは内覧会の時だった。施工業者が部屋についての説明をしてくれた。そして、今のうちに直して欲しいところがあれば言って欲しいというので、「このすぐ下が駐車場なので、床をブチ抜いて車のパレットがここまであがってくるようにはしてもらえませんか?」と言ったら、「さすがにそれは出来ません」と言われてしまった。しかし、車好きなら誰もが車をリビングに置くことを夢見るだろう。その夢を語ったまでの事だったのに。
そして迎えた本契約の日。あまりの書類の多さに辟易したが、鮪蔵の為だと、可愛い車の為なのだから一生懸命サインしてハンコを押しますと担当者に言って笑いを取ろうと思ったら、担当者が苦笑いをしながら口を開いた。
「他のお客様はむしろ、この物件の交通の便の良さが気に入って購入をお決めになって、頭金の足しにする為に車を手放されるケースが多いんですよね・・・」
そのセリフのとおり、抽選だからどうなるかわからないと言われた駐車場はあっさり契約出来、しかも、入居して間もなくは他に車は殆ど止まっていなかった。
そして引っ越し当日。帰国して1年と2日目の出来事だった。
家具を引っ越し業者の車に搬入してもらい、私と鮪蔵もマンションに向かった。
そして案の定、初めての機械式駐車場の操作に戸惑った。一番戸惑ったのがターンテーブルだ。どのくらいの角度まで回せば具合良く鮪蔵をプレートに納められるのかわからないので適当に回して止めた。
プレートは相当狭い。そして、鮪蔵は北米仕様車なのでミラーが畳めない、ということは、かなりきっちりプレートの真ん中に止めないとミラーがどこかにぶつかって折れてしまう可能性がある。が、この私に一発で真ん中に止める技術など無い。
恥をしのんで5,6回は切り返したが、最後にうまく止められたときの感動はたとえようが無かった。
「鮪蔵、今日からここがお前のおうちだよ」
そう語りかけながらも、頭の中から取れない罪悪感があった。
劣化しながらも、鮪蔵は、ひょっとしたら屋外駐車を楽しんでいたかもしれないという思いがあったからだ。四季を楽しんで、昼は雲を見て、夜は月と星を見て、たまに通り過ぎる鳥や猫や散歩中の犬を眺めたり、大雪を被ったり、そんなふうに鮪蔵なりに楽しい生活を送っていたのではないかと。
それが一転して、一日中真っ暗で、不安定な宙に吊られる生活を強いてしまう。果たしてこれは鮪蔵にとって幸せな生活なのかと考え込んでしまった。
鮪蔵に長生きして欲しいというのは完全なる私のエゴだ。他の人は「そんなに愛されて幸せな車だ」と言ってくれるが、果たして鮪蔵は、広いアメリカの道ではなく、窮屈な東京暮らしを満足に思っているのか。ボストンに置いてきて、オーナーが誰になろうと、あの景色を見てその生涯を全うした方が良かったのではないか、今もそう考えてしまうことがある。
しかし、何はともあれ、鮪蔵と私は、お互いの安住の地を手に入れた。
私の部屋のすぐ下に鮪蔵がいる、その満足感はもう手放せたものではない。
だが、そのマンションの立地故に重大な欠点がある事に住み始めてから気づいた。目の前の道路が大きい故に、駐車場から路上になかなか出られないのだ。車がとぎれるのを待っていたら何年経っても出られないので、毎度毎度仕方なく歩道に車体を出し、車の隙間に鼻先を突っ込んで路上に出たい事をアピールし、譲ってもらうという生活をしている。
それでもめげずに、私と鮪蔵は週末になるとドライブに行く。
さて鮪蔵、次は何処に行こうか?
text by shibizou | 2005.11.17 | [ 出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
November 10, 2005
第10回:再会、そしていきなりの長旅
出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 by shibizou
波乱含みの駐車場確保を終えてしばらくして、鮪蔵との再会の日が4月30日に決まった。
その日、私はもちろん朝からそわそわしていた。
業者から「今から陸運局に行きます、2時にはお届け出来ると思います。」という電話をもらい、私は、自分のアパートの前を走る道路をひたすら見つめていた。業者の話によると、その陸運局はアパートからほど近いところにあり、その道路を通るのだという。
たぶん、11時半くらいだっただろうか。一瞬ではあったが、窓の外を、トレーラーに積まれた銀色の車がかすめていった。絶対鮪蔵だと思った。
そしたらやはりそうだったらしく、ほどなくして業者から「陸運局に着いた」という連絡が来た。しかし、「とても混んでいて予定通りの時間には渡せないかもしれない」とのことだった。そんな事なら自分で手続きをすれば良かったと思ったりしたが、しかし、もうここまで来たらひたすら待つしかない。
だけど、待っている間どうしたらいいのか。
嬉しくて仕方ないのだから、決して退屈ではないのだ。むしろ嬉しすぎて、どうしたらいいのかわからなかった。その嬉しさは、ボストンでの納車の日のそれとは段違いだった。あの時は「私の車」だったが、今は「うちの鮪蔵」なのだ。
しかし奇遇にも、私の手元に鮪蔵が来たのは、納車の日とほぼ同じ、予告された時刻から2時間半後の事だった。
「今からそちらに向かいます」と業者から電話が入った瞬間にアパートを飛び出して、目の前の道路で待った。待った。1分が1時間に思えるほどに待った。
そして、何分くらい待っただろうか。何台の車を見送っただろうか。ふと、右手の方から見覚えのある銀の光が姿を現し、それは待ちこがれた顔になっていた。
「鮪蔵!」
その方向に駆け寄って行った。鮪蔵が私の目の前に止まった。運転席から予想以上にダンディな姿の業者が出てきて、「お待たせしました」と言いながら私の手に鮪蔵の鍵を置いた。
おかえり、鮪蔵。
泣かない訳が無かった。わんわん泣いた。
しかし、泣いている暇は無かった。日本でカーオーナーとして暮らすために必要な手続きを、私はまだまだ終えていなかった。
まず、任意保険に入ることをすっかり忘れていた。その場で業者とつながりのある保険屋さんに連絡を取ってもらった。
そして業者から、鮪蔵が日本に上陸してからナンバープレートを交付されるまでに作られた書類の一式を受け取り、確かめた。
それから、鮪蔵自身。確かに見慣れた顔だし、バンパーの擦り傷もそのままだし、でも何か違う。そう怪訝に思って見ていたら、業者が「道交法に合うようにこう改造しました」という説明を始めてくれた。
まず、車体横に、北米仕様車には無いウィンカーが付けられていた。すっきりした車体だったのにおてもやんの様な丸いオレンジのライトが付けられて、ただでさえ雀っぽいシビックなのにますます雀っぽくなっていた。
そしてリアの方に回って愕然とする。アメリカではブレーキランプもウィンカーも赤でいいのだが、日本ではウィンカーはオレンジでなければならないということで、バックライトだった所がウィンカーにされ、バックライトは新たにリアバンパーの下のど真ん中に付けられていたのだ。予想外の姿になっている事に目を丸くした私だが、「これで車検は通りますから大丈夫です」と業者の声。無事に帰ってきたから良いのだが、ボストン時代の美しい姿からちょっとかけ離れてしまった事には軽くショックを受けた。
そして、もう一台納車先があるから、と業者は私の元を去り、私は鮪蔵の運転席に乗り込んだ。シートを運転しやすい位置に戻し、エンジンに火を入れ、駐車場までのわずかな道を進み、そしてその日は自信が無かったので、アメリカ式に頭から駐車スペースに突っ込んだ。
それから30分、いや、どのくらいだっただろう。鮪蔵の中から知人にメールを打ったり、鮪蔵の写真を撮ったり、車内も車外もくまなく触って眺めて、日が落ちる頃、私はようやく鮪蔵の元を離れ、「鮪蔵と一緒の夜」を過ごした。
そして次の日、近所のカーショップまで出かけてナビをつけてもらった。東京の道は複雑な上に私自身がかなりの方向音痴なので、ナビ無しでは生きていけないだろうと思ったからだ。
左ハンドルのシビックということで、ショップの人達にはもちろん珍しがられた。が、困った事が起きた。うちの鮪蔵が日本のシビック・フェリオのどのグレードにあたるのかわからなかったのだ。一応うちの鮪蔵はES3という事になっているのだが、そんな番号が日本のホンダのカタログに載っている訳がなく、また、日本仕様のシビック・フェリオの装備一覧などを見せてもらったが、どうやらうちの鮪蔵は一番下のグレードと真ん中のグレードを掛け合わせたような装備で、かなりどっちつかずだったのだ。しかし結果として、そのショップは鮪蔵を国産車扱いしてくれて、国産車ならナビ取り付け無料キャンペーンを適応してくれた。
そしてナビ付きになった鮪蔵で、私は帰路に着いた。このナビがまたマニアックなルートを選ぶ輩で、地図で調べた往路とは全く違う道をはじきだしてくれた。妙に裏道好きなのだ。このナビには今現在も苦しめられているが、しかし、かと言ってこのナビ無しでは走れないので、おとなしくその指示に従っている次第だ。
そして、鮪蔵が帰ってきたら真っ先に見せてあげようと思った景色の中に、私は鮪蔵を連れて行くことにした。実家までのルートだ。その途中にある山が絶景なのだ。田舎の周りももちろん景色がいいのだ。
実家には3月に帰国してからまだ顔を出していなかった。鮪蔵と一緒に帰るから、と前から言ってはあった。だが、改めて電話で親に「車で帰るから」というと、「死ぬ気か?!」と反対される。しかし私は反論した。運転するのは一般道の方が怖い事、高速なら車しか走ってないし信号も無いし、ただアクセルを踏んでいればいいだけなので、左側通行に慣れるにはいきなり高速に乗った方がいいだろうということ、何より私がアメリカ一運転マナーが悪いと言われているボストンで運転してこれたことを力説し、親を納得させた。
そして5月13日、私は日本での高速デビューを果たした。ETC付きのナビを選んでいたので、料金所も問題なく突破した。流れにもスムーズに乗れた。
そして、東北道の、月山の記憶以上の景色の良さに私ははしゃいだ。鮪蔵とこの景色の中を走っていることに感動した。
途中休みながら走ること5時間、私は実家に到着し、そこで悲劇に見舞われた。
2週間の間にバックからの駐車の練習をしてはいたのだが、実家の玄関前に止めるのは生まれて初めてのことだったので、どう止めていいのかわからず、とりあえずこれでいいだろうという幅を取って後ろに旋回を始めたら、右にある車庫の出っ張った窓枠に鮪蔵の右リアのボディをこすりつけてしまった。うわ、と思いながらどうにか少し方向を変えながら前に進み、今度は少しゆとりをもって改めて後ろに鮪蔵を進めた。ここで更なる悲劇が待っていた。うちの実家の玄関前のスペースはなだらかな下り坂になっていて、バックで車を止めるとなると、その微妙な坂を微妙なアクセルワークで上らなければならないのだ。その加減を案の定間違い、後ろの方から「メキメキバキッ」という音が聞こえてきた。音からして鮪蔵が玄関のアーチにぶつかった訳ではなさそうだと安心したが、車を降りてその音の原因を見た。
そうしたら、無理矢理日本の道交法に合うようにと付けられたバックライトが、玄関先にあったプランターを割っていた。良く解釈すれば、このバックライトとプランターがあったお陰で、鮪蔵はリア部分を玄関のアーチに激突させる事を免れた訳だ。最初見たときはあまりの不格好に目眩がしたが、その時助けられたお陰で、今はその変なリアライトは私のお気に入りになっている。
しかし、ほっとしたのもつかの間、それだけ派手な音が玄関先でしている事に気づいた父親が真っ青な顔で飛び出してきた。久々の、帰国してから初めての再会は感動に満ちたものではなく、「何やってるんだこのバカ娘が。車が勿体ない。」という父親のお小言から始まってしまった。しかしこちらとしてはお小言を聞いている場合ではなかった。鮪蔵に応急処置を施す為、近所のホームセンターまで連れて行ってもらい、サビ止めと部分用塗料を買って鮪蔵に塗った。
この長旅で気づいたのは、日本の高速道路を走ると、虫の死骸が車体にびっしりとつくということだった。ナンバープレートの一部が赤く染まったりしていた。距離は走りたいけど鮪蔵が汚れるのは嫌、というジレンマにそれから悩まされることになるのだが、日本の高速道路の走りやすさ、舗装の良さにすっかり味をしめてしまった私は、この実家までのドライブをきっかけに、一度のドライブで片道100キロは走らないと気が済まない質になってしまっていた。
気が付けば、ボストンにいた頃より走行距離のメーターの進みが早くなっていた。
そして、日差しが厳しい夏を迎えていた。
text by shibizou | 2005.11.10 | [ 出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
November 03, 2005
第9回:しばしの別れ
出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 by shibizou
鮪蔵とボストンでの最後の思い出作りのドライブをしながら、着々と輸送業者とのコンタクトは進んでいった。
まず、鮪蔵について改めて調べたら、構成部品の割合が、現地75%、日本から25%という数字だった。私はこれを見て、外装部分が現地、電気系統等の複雑なものは日本から輸入して組み立てているのだろうと解釈し、また、確かホンダは世界で使う部品の統一化を進めているはずだという記憶があったので、万が一修理をしなければならない事になっても大丈夫だろうと信じて満足してしまった。これが後で鮪蔵の見た目が凄い事になるという致命傷になるとは、この時は露とも思わなかった。今思えば、車のメカニックな部分ではなく、日本の道交法という観点から鮪蔵の何処をいじれば良いのかを考えるべきであった。
そうこうしているうちに正式に帰国の辞令が下り、また、後任も発令され、私がボストンを発つ日が3月3日に決まった。
こう書いてはグチになるが、自分の生活のセットアップに前任が全く手を貸してくれずに非常に困った経験があり、後任にはその苦労を味わわせまいと思い、足として必要な鮪蔵を帰国前日までボストンに残そうと決めていたので、3月2日に鮪蔵を業者に託す事にした。
そこで、業者のサイトを見て覚悟してはいた事ではあったが、辛い事を告げられる。その業者に託すと、日本の道路をすぐ走れるようナンバープレートを付けた状態にして私の手元に届けてくれるということであったが、それに2ヶ月の時間を要するということだ。つまり、かなり長く鮪蔵と離ればなれでいなければならないということである。
日本には早く帰りたかったが、時間が早く経てば、鮪蔵と2ヶ月離れてなければならない日も近づくことになる。その2ヶ月を耐えられるのか、そう考えるとどんよりとした気持ちになった。
そして2月19日、後輩が着任し、早速その日から鮪蔵は後任の為に役立った。後任の仮住まいが私の通勤路の途中ということで、帰りはほぼ毎日送り、週末は買い物に案内し、という感じで、自分で言うのも何だが、ギリギリまで鮪蔵を残すという選択は間違っていなかったと思った。
ばたばたと後任の世話に明け暮れる毎日を過ごしていたら、3月2日はあっと言う間に来た。
その直前にアパートを引き払った。見送ってくれたのは顔なじみのコンシェルジェだった。
駐車場の出入り口にあるインターホン越しに最後の別れの挨拶をした。日本にいた頃は軽い挨拶だ思っていた「See you again.」という言葉をそのおじさんは使った。こういう場面に使うのだとは思っていなかった。そんなに重い言葉なのだと初めて知った。私がそのアパートに入居してからずっと、お父さんのような存在のコンシェルジェだったので、その言葉はさらにずしりと来た。
それから3日間だけホテル住まいをしたのだが、そのホテルの駐車場の近くの道路が、私と鮪蔵のしばしの別れの舞台になった。
当日の朝、アメリカでのナンバープレートを外し、業者からの連絡を待った。そして、業者に委託されたボストンからサンフランシスコまでの輸送を担当する業者が鮪蔵を迎えに来た。
業者の顔を見ただけで涙腺が緩んだ。
嗚咽を堪える私をよそに、業者は作業を着々と進める。まず車体の状態を確認し、その後、鮪蔵の前輪を台に乗せて持ち上げ、変なかたつむりの様なランプを付ける。私は、人間でも何でも、もう一度会いたい存在の写真は撮らないことにしているので、その鮪蔵の様子を写真には撮るまいと思っていたのだが、泣きながらもその姿のあまりの滑稽さに「これは撮っておかねば」と思い、しかし、生憎手元には30万画素のカメラしかついていないPDAしか無かったので、それで1枚かしゃりと写真を撮った。
この姿が、私がアメリカで見た鮪蔵の最後の姿だ。
そして、鮪蔵が私の手元から離れる瞬間が来た。業者は淡々と作業を進める。私は次第に泣きじゃくっていた。業者がトレーラに乗り込む。エンジンがかけられる。
そして、鮪蔵の姿がどんどん小さくなって行った。
姿が見えなくなるまで私は見送った。我を忘れて泣いていた。
と、そんな私達の様子を途中から、一見怖そうな二人組が道ばたに車を止めてじっと伺っていた。鮪蔵の姿が見えなくなってホテルに戻ろうと踵を返した私を、その人達は呼び止め「そんなに泣いて何があったんだい?」と訊ねてきた。見た目とはえらく違う優しい口調に驚きながら、自分が明日日本に帰ること、それに伴って車も持ち帰るので今業者に託した所なのだということを、泣きながらつっかえながら、英語で説明した。そんな英語を彼らはちゃんと理解してくれて、私を励ましてくれた。
「良いことじゃないか。また会えるんだから。そんなに泣かないで。幸運を祈るよ。」そう言ってくれた。
そう、また会えるのだから、こんなに泣かなくてもいいのに。
しかし、私には2ヶ月という月日が途方もなく長く、まるで永遠に続くかのように思えて仕方なかった。
そして2004年3月3日、早朝のローガン空港で私は機中の人になり、翌3月4日、日本に降り立った。
そしてその次の日には、アパートと駐車場を決めていた。出来れば屋根付き駐車場を借りたかったが、それは自分の財力ではとても無理な話だったので、仕方なく屋外駐車場を借りることにした。鮪蔵が自分の手元に来るまでまだ2ヶ月もあるのだからもっとゆっくり探せば良かったものを、私はとにかく、自分の寝床よりも鮪蔵が落ち着ける場所を早く探したい一心で探してしまい、これが後にまた苦労の種になる。
アパートの契約は早々に出来たのだが、隣接する駐車場については、4月には空きが出るのでそれまで待ってくれという事で、私はおとなしく待っていたのだが一向に連絡が来ない。痺れを切らして不動産屋に連絡を入れたら、なんと、その駐車場が売りに出されることになり、新たに契約を結ぶことが出来ないと言われたのだ。
おぃ、このアパートに決めたのは隣が駐車場だからだぞ?と思っても、もう住み始めた後だったので時すでに遅しで、仕方なく、歩いて2分ほどかかる、アパートから交差点をひとつ越えた所にある駐車場を借りる事になった。しかしこれがまた運命の分かれ道だった。歩いてたった2分の距離だというのに、私のアパートがある場所と、駐車場がある場所では、担当の警察署が違っていたのだ。つまり、運転免許の変更をするにはA署、車庫証明を取るにはB署に行かねばならないという事態になってしまったのだ。それぞれ一度ずつの事なので良かったが、正直面食らった。
しかし、そんな波乱が少し、鮪蔵と離れている寂しさを紛らわせてくれていたのは事実だ。鮪蔵を迎える為の書類を揃える作業は実際楽しかった。駐車場のサイズも、1メートルの巻き尺でちまちまと測ったが苦痛ではなかった。
そして3月が終わろうとしていたある日、鮪蔵が乗った船が横浜港に着いたという連絡を業者から貰った。それから1ヶ月、日本の道交法に合うように直すための時間がかかる、それで計2ヶ月という算段だったのだ。
その電話一本で、私の心配は8割方飛んだ。同じ陸の上に鮪蔵がいる、その事実が凄く嬉しかった。もう、船が沈むんじゃないかとかそんな心配をしなくてもいいのだ。もうあとはひたすら、鮪蔵が来るのを待てば良くなったのだ。
いざ待ってみれば、心配したほど1ヶ月は長くなかった。だから、あと1ヶ月もそれほど長くはないだろうと思った。
あの可愛い鮪蔵に会える、そう思うといてもたってもいられなかったが、別れの時の様に多少の笑いが混じる再会になるとは、その時は微塵にも思っていなかった。
text by shibizou | 2005.11.03 | [ 出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
October 27, 2005
第8回:転勤内示、鮪蔵日本車化計画始動
出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 by shibizou
2003年の秋があっという間に過ぎ去り、ボストンはもう冬に両足を突っ込んでいた。
2000年の夏から3年5ヶ月が経っていた。今度こそ本当に、いつ転勤の内示が来てもおかしくないタイミングになっていたのだが、一向に話が来ない。私はいつの間にか「諦め」の境地に入っていた。この仕事を続けている限り、自分の人生を自分で決められない事を悟り、流されるままに生きようと思っていた。鮪蔵と離ればなれにさえならなければそれでいいと思った。
そう思っていた11月下旬のある金曜日の夕方、直属の上司が私のオフィスに深刻な顔をして入ってきた。
「これから話す事は月曜日に他の上司から話がある。それまで知らない振りが出来るか?」
そう唐突に言われ、きょとんとしながらも「はい」と答えると、上司の口から思いがけない言葉が飛び出した。
「本来ならまた外国転勤だが、お前はいったん日本に帰れ。」
驚いた。とてつもなく驚いた。
帰国すること。自分には到底手に入らないと思っていた夢が、こんなにあっけなく手の中に転がってくるとは。
そのきっかけが、前回の連載に書いたとおり、私の日頃の態度が少しおかしくなってきているということだった。どうやら、私の運転の荒さに異常さを見いだした直属の上司が、もっと上の人事を握っている上司にかけあい、本社と相談してくれたらしい。と、私は思っているのだが、真相は今も知らされていない。しかし、直属の上司は、そこまで人の面倒を見られる人ではあったので、この推察に間違いは無いと思う。
日本に帰れる、ということは、鮪蔵を連れて帰れるということだと、私は脊髄反射で思った。それからの上司の話は耳に残っていない。以前少しだけ帰国を微かに望んだ時に見つけていた車の個人輸入業者のサイトをもう一度探さなければ、もう、その事で頭がいっぱいだった。
その日の帰り道、私は小走りに鮪蔵の元に駆け寄り、鮪蔵に帰国出来ることを報告した。
そして、これから毎週、走り損ねていた道路を制覇しようと誓った。
我が社の慣例では、辞令が下りるのが2ヶ月後、それから45日以内に帰国、つまり、私と鮪蔵がボストンにいるのはあと3ヶ月強という時間になった。3ヶ月ということは、ドライブに出かけられる週末は12回。あとたった12回のチャンスをどう生かそうか、まだ行っていない土地を訪れるか、一度行ってすっかり気に入ったケープコッドには必ず行かねばとか、そんな事を、帰り道にハンドルを握りながら考えていた。
そして週が明け、人事を握る上司から正式に内示をもらった。
その足で私は速攻、事務所の雑用を一手に引き受けるスタッフの所に向かった。信用できる友達でもあったので、いの一番に帰国の内示が出た事を報告し、自分が個人輸入業者とコンタクトを取り始めると転勤の内示が出たことが周りに漏れる(正式に辞令が出るまでは、人事の話をしないことがうちの職場の慣例になっている)ので、私の代わりに業者にかけあって欲しいとお願いした。
行動の早い彼女は、その日のうちに早速業者にかけあってくれた。そして、とてもきまずそうな顔で私のオフィスに顔を出してくれた。
「業者に問い合わせたんだけど・・・」
次の言葉を続けてくれない。大体予想はついていたので、私は彼女に次の言葉を促した。見事に予想通りだった。
「シビックですよね。売っても100万、運んでも100万なら、そのお金を合わせて日本で同じ型の新車を買った方がいいんじゃないですか、って言われちゃいました。」
つまり、遠巻きに業者に断られたというのだ。
彼女が悪い訳ではないのに、物凄く申し訳なさそうな顔で言われてこっちが申し訳なくなったが、しかし、だからと言って「はいそうですか」と業者に答える訳にはいかなかった。そのくらいの金額がかかることも、日本で簡単に手に入る車をわざわざ持ち帰ることが端から見てどのくらいバカなことかも十分承知の上で決めた事だった。
いや、むしろ、大金ではあるが、「その程度」のお金の為に鮪蔵を手放す事の方が、私には出来なかった。既に鮪蔵は、私にとってはお金云々という時限を超えた存在になっていた。お金を出すことで鮪蔵と一緒にいる時間を買えるのならば、いくら生活の質が落ちても構わないという覚悟は出来ていた。いや、お金が潤沢にあっても鮪蔵がいない、そういう生活を送ることの方が怖かった。今まで自分を支えてきてくれた存在を、今手放すなんて事は出来なかった。一生面倒を見ると誓ったのだから、なおさらだった。手放した後の鮪蔵にどんな人生が待っているかを考えるのも怖かった。やはりどうしても、この子はワンオーナーでその生涯を過ごさせるのだと、改めて誓ったのに。
鮪蔵に対する私の溺愛ぶりは、頼んだスタッフも十分承知している事だった。なので、もう一度その輸入業者にかけあってくれることになったのだが、「そこまで言うなら」ということで、引き受けてもらえることになった。気がつけば、自分が住んでいるアパートの管理人に、立ち退くという連絡もまだしていない段階だった。とにかく、鮪蔵が日本へ向かう「足」を確保すること、それが第一プライオリティだった。
と、輸送手段が決まってからはたと気づいた。鮪蔵はシビックとはいえ、北米仕様車だ。日本に持って帰ってメンテナンスは大丈夫なのか、部品は手に入るのか、それらを考えることをすっかり忘れていた。暢気に思い出作りのドライブ計画を練っている場合ではなかった。
引っ越しの準備を進めながら、鮪蔵を「日本車」仕様にする為に私は動き出していた。
残り3ヶ月で何処まで出来るのか、不安はあったが、しかし、これ程に嬉しい不安は無かった。
text by shibizou | 2005.10.27 | [ 出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
October 20, 2005
第7回:タイムリミット
出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 by shibizou
我が社の海外支店勤務は原則1か所3年で、2か所勤めて本社に戻るというパターンが多いのだが、2年過ぎたらいつ転勤の話が来てもおかしくないのが現状だったりする。
その2年が過ぎていた。そう、いつ自分がボストンから離れるのかわからない時期に差し掛かっていた。
一生面倒をみると誓った愛車鮪蔵だが、もし、左ハンドル禁止の国へ転勤しろと言われたら手放さなければならない、そう思ったらいてもたってもいられなくなって、私は、残された時間を、万が一手放さなければならくなった時に後悔しないよう思い出を作ろうと決めた。そして、途中からはブログに記録しはじめた。2003年の秋だった。
それまで必要最低限の荷物しか持たずに出かけていたドライブに、デジカメを持って行くようになった。あちこちでの鮪蔵を撮るためだ。
そして、一番最初に私が撮った鮪蔵の写真がこれなのだ。
この写真は後に、私のアイコンとしていろいろな所で使われる事になる。
これも親バカ故なのかもしれないが、この写真の鮪蔵は本当に嬉しそうな顔をしている。
そして時にはケープコッドで黄昏れてみたり。
とにかく単なる工業製品とは思えない程、鮪蔵は表情豊かなのだ。笑ったりスネたり、そんなふうに見える写真が何枚も何枚も撮れた。
そんな鮪蔵を見て、ますます愛着が湧かない訳がない。思い出を作る為に始めた写真を残す事、ブログを書く事だったのに、それは、「このコを手放すまい」という決意を促すためのものになり、更に親バカ記録へと変化していっていた。
そして気が付けば、週末のドライブだけでなく、通勤の時もデジカメを持ち歩く様になり、職場の駐車場で私を待ちわびる鮪蔵や、突然の大雪にまみれて真っ白になった鮪蔵を撮ったり、と、まるで林家ペーの様に鮪蔵を撮りまくった。その写真達は後にiBookの故障で殆どを失う事になってしまうのだが・・・とにかく、少なくとも2日に1度は鮪蔵の写真を撮る日が続き、気が付けばもう一度秋が訪れていた。丸3年が過ぎていた。
その間、2度程一時帰国をしたのだが、日本に帰る度に、もうアメリカには戻りたくないといつもいつも思ったものだ。
しかし、鮪蔵が待っているから、と、私はアメリカ行きの飛行機に乗った。こう書くと社会人としての責任云々を問われるかもしれないが、私がボストン勤務を最後まで成す事が出来たのは、鮪蔵がいたからだった。鮪蔵が支えてくれたからだった。鮪蔵がいなかったら、最悪失踪していたかもしれない。私の理性を保たせてくれたのは鮪蔵だった。そう、理性を保っていたつもりだった。
そんな鮪蔵と、丸3年という月日が経ったその時、転勤先によっては離ればなれにならなければならない、そう思い詰め始めた私は、いつの間にか不眠症に陥っていた。軽い睡眠薬が入った風邪薬を飲まないと眠れない日々が続いていた。仕事でミスを連発することが多くなっていた。
そんな私だったが、鮪蔵のハンドルを握る時だけは、「私」に戻っていた。鮪蔵といる時だけ、私は私らしかった。自由だった。仕事にも何にも束縛されない、自分でいることが出来た。
と、思っていたのだが、ある日、鮪蔵を運転する私の様子がおかしいことを直属の上司に目撃されてしまった。
それは出勤途中の出来事だったのだが、我が物顔で車道を歩く女性にムカつき、わざと大回りに避けて走る私の真後ろを上司が運転していたのだ。
職場の駐車場に鮪蔵を止めた私の所に、上司が血相を変えて近寄って来た。
「あんな荒い運転をするなんてどういうことだ。警察が見ていたら捕まっていたぞ。」
そう言われてしまったが、怒りをあらわにすることの何が悪いんだ、という思いで私はそのセリフを聞いていた。そのくらい、私はアメリカで生活するということに自覚無く参っていたのだ。
しかし後に、この出来事は、私と鮪蔵の運命を左右するきっかけになった。
text by shibizou | 2005.10.20 | [ 出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
October 13, 2005
第6回:命名「鮪蔵」の謎
出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 by shibizou
私の紹介欄を見て「鮪蔵」って何だろう?と思っている人も多いと思うが、これが私が車につけた名前なのだ。しかし、車に「まぐろ」とはどういう事だ?と更に疑問に思う人は多いだろう。今回は、命名までのいきさつを説明したいと思う。
車が直って戻って来ても、私の生活は相変わらずだった。プライベートに時間を割けないということはそれだけ人に会うチャンスも無いということで、事務所の中の人達と仕事中に会話を交わすくらいが私の日常の人との接点だった。
なんでこんな孤独なんだろう、そう思う毎日だったが、先の事故をきっかけに、私をひたすら待ってくれる存在に気付いた。車だ。朝も夜も、私が駆け付けるまで駐車場の狭いスペースの中にちょこんと佇まい、エンジンに火が入れられるのを今か今かと待ってくれている。
次第に私の車への接し方は変わって行っていた。無造作にキーを差し込むだけだったのが、「おはよう」「ただいま」と声をかけたり、軽く撫でたりしてから乗り込む様になっていた。
そして、気付いたら「シビ蔵」と呼ぶようになっていた。何故シビ蔵か。単純に、車がシビックだからだ。そして私には、この車は男の子の様に思えていた。だから、男の子の名前なのだ。
愛着が湧いてしまって売る時に辛いから名前はつけまいと思っていたのだが、そんな事はすっかり忘れて、「シビ蔵、おはよう」「シビ蔵、ただいま」「シビ蔵、おやすみ、また明日ね」と声をかけることが習慣になっていた。
友人達へのメールにも、車について書く事が多くなって来た。最初の頃はそう、「シビ蔵」と打っていたのだが、ある日、ことえりが偶然に「鮪蔵」という漢字変換をした。
へ?マグロ?鮪って「シビ」って読むの?と思い辞書で調べたら、確かに「しび」という読み方があった。
多少マヌケだが、確かにうちのコは銀色だしずんぐりしてるし、よくよく考えると鮪っぽい。それならそれはちょうど良いではないか、ということで、私はこのコの名前を「鮪蔵」に決めた。
そう、全くの偶然の産物なのだ。しかし、なんという粋な偶然。私がMac使いでなかったら、うちのコは永遠に「シビ蔵」という普通のありきたりの字面の名前だっただろう。
名前が決まったとなれば早速使うしかない。友人達のメールにも「うちの鮪蔵が」と書くようになる。そうすると必ず「なんて読むの?」という質問が返ってくる。これをいちいち説明するのが楽しくて楽しくて仕方なかった。事務所の人達にもいちいち説明した。反応は様々だが、やはり「なんでそこまで車に入れ込むというかそのマヌケな名前は何だ」というのが一番多かった。
それでも私は満足していた。うちのコは鮪蔵。一発では決して読めない名前。私とうちのコだけがすんなりわかる謎めいた名前。私はかなり気に入ってしまい、自分のネット上のハンドルでも、最初は「鮪蔵」と使っていたくらいだ。今はうちのコと区別をつけるために自分の方はローマ字にしてしまったが。
ちょっと口に出して「しびぞう」と言ってみて欲しい。響きがとても可愛いではないか。走るのが好きなやんちゃな男の子っぽいではないか。と、親バカの悦に私は入りつつあった。そして日に日に愛情もエスカレートして行った。自分でボンネットをあける事はしなかったが、シビックだというのにガソリンは一番オクタン値が高いものを使い、オイル交換もディーラーに持って行ってしてもらい、ちょっとでも汚れるとすぐ洗車。使い捨ての窓拭きを車の中に常備し、いつでも窓はピカピカ。時間が無くて洗車に行けないときはこれで車体をも拭いた。真冬の寒いガレージの中で、自分の手が青紫色になってかじかむ事など気にせずに、ただ、鮪蔵にピカピカになって欲しくて、ガレージに随分留まる事が多くなった。
とどのつまりは、自分の趣味ではなく、鮪蔵の為にペンダントを買ってあげた事だ。さすが車社会アメリカということで、カーアクセサリーは必須なものから不必要なものまで何でもそろっていて、その中に、バックミラーに下げる事だけを目的に作られたアクセサリーがあった。中にLEDライトが入っていてキラキラするやつ、私はそれを鮪蔵にあげた。
そしていつの日からか、うちのコには表情があると思える様になってきた。特に、薄暗い事務所の駐車場にとめておいた時。鮪蔵のヘッドライトが目のように見えて、私が姿を現すと、「走れるんだ!」と嬉しそうな表情になる様な気がして仕方なかった。
そうやって愛情が増した分、走行距離も段々長くなってきていた。ボストンに慣れて来たせいもあるかもしれないが。
週末はアパートに閉じこもって一日中寝てる事が多かった私が、鮪蔵に会いたくて、一緒にいたくて、週末が近付くと地図とにらめっこをしてドライブルートを決めて、昼までには起きて、キーを持ってガレージに行って外に飛び出す様になっていた。
そして気が付けば、渡米してもうすぐまる2年を迎えようとしていた。1任地につき3年と言われていたので、あっと言う間に赴任期間の3分の2を終えた事になっていた。
そろそろ転勤の事を考えなければならない時期に差し掛かっていた。
text by shibizou | 2005.10.13 | [ 出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
October 06, 2005
第5回:溺愛のきっかけ
出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 by shibizou
それは、ボストン生活を初めて1年、車通勤を始めてから半年経った頃に訪れた。
事務所の人達には「乗りはじめて半年事故らなければ大丈夫」と言われていた矢先だった。
着任してからの1年、それは、ストレスとの戦いだった。ボストンは学問の街だし、前任からは仕事にそんなに拘束される事はないと聞いていたので、私は仕事が終わってからいろいろと習う事を画策してその地に降り立った。しかし、現実はそんな事が許されるどころか、平日に体力を使い果たして、土日にプライベートの予定を入れる事さえままならない状態だった。
忙しかった訳ではない。他の人がやった仕事の最後の段階を仕上げるのが私の仕事だったため、自分のテンポで事を進められる訳ではなく、つまりは人様の仕事の進捗状況に振り回される毎日だったのだ。その中に一人、特に仕事が遅い人がいた。5時半が退社時間のはずなのに、5時にならないと仕事を始めない人がいた。全体的に忙しい事務所ではなかったので、特にローカルスタッフは、時間になると速攻帰る。最初のうちはみんな「ゴハンに行かない?」「買い物に行かない?」と声をかけてくれたものだが、その仕事の遅い人に振り回されて帰れない私の姿を見て、声をかけてくれる人も段々いなくなってきた。
孤独だった。毎日が嫌だった。今日仕事に行っていくら自分が真面目に働いても何が出来る訳でもなく、何を学べる訳でもなく、ただ、無為に時間が過ぎて行く、そんなの嫌だ、と体が叫びはじめ、眠れない夜が続いていた。
そんな状態で車を運転したら。
そして、その日が訪れた。
朝、眠くて重い頭を抱えながら、もう何度も通った通勤路をその日も走っていた。ストロードライブを降りて、ボストン・コモンとパブリック・ガーデンの間を通るアーリントン・ストリートに入った時だった。いつもなら通勤ラッシュで、例え横断歩道で人が待っていても誰もが決してアクセルを緩める事などない、むしろ踏み込むポイントで、突如目の前のSAABが止まった。気付いてブレーキを踏んでも間に合わなかった。私の車はSAABに追突していた。
事故の時の、あの、一瞬、時間が止まった様な感覚は何なのだろう。
幸い、エアバッグが開く程の事にはならなかったが、とにかく相手と話をしなければと車を降りた。相手はインテリジェンス溢れるおばさんだった。彼女は当たり前の事をしただけだ、横断歩道に人がいたから止まったのだという。しかし、それは通勤ラッシュ時の常識では無いし、そもそも私からは横断歩道に止まっている人なんて木の陰にでも隠れていたせいか見えなかったと言い返したかったが、私の英語力では話にならない。事故で遅刻する事の報告も兼ねて事務所に電話をし、英語が堪能な、例の車を買う時について来てもらったスタッフに相手との会話をお願いした。
その間、私は、自分の車と相手のそれを見比べていた。SAABの方は、さすがSAABと言った所で、リアライトが割れてバンパーが外れただけで、車体へのダメージは全くなかった。
他方、私の車。ボンネットがぐっちゃりひしゃげている。幸い跳ね上がって視野を覆うような事にはなっていなかったが、しかし、新車である。しかし、事故車にしてしまった。もう売れない、売れたとしても安い値段にしかならない、というか、せっかくこんなに美しく生まれてきたのに、私がダメにしてしまった、その事がショックだった。そう、こんなピカピカの綺麗な車を、私が事故車にしてしまった。車を見ながら、まだ形になっていない決意が芽生えはじめていた。
事務所のスタッフと事故の相手との話し合いが終わり、事故のお約束として住所と名前の交換をして我々はその場を去った。幸い両方の車もエンジンにダメージは無く、無惨な姿のままではあるが、車を動かす事が出来た。
そしてまた幸いな事に、事故の相手は、横断歩道で待っている人の為に車を止める程の人だけあって、非常に良い人だった。変な言いがかりをつけてくる訳でもなく、彼女への保険の手続き等については非常にスムーズだった。
しかし、厄介だったのは保険会社と修理工場との間のやりとりだった。日本と違って、まず、保険会社が委託する修理の見積もりを取る専門の業者に車を持って行って、値段が出てから修理工場を案内してくれるという非常に面倒なシステムで、事故を起こしてから修理工場に持ち込むまで3週間もかかってしまった。
そして、修理に持ち込んでからものろのろと時間が過ぎた。出来上がると言われた日になっても何の連絡も無かったので、業を煮やしてまた例のスタッフに連絡をとってもらったら、「今ボンネットの塗装を乾かしている所だ」という呑気な返事。いや、事故を起こしたのは私だが、これにはカチンと来て、とにかく早く直せとせっついてもらう。
しかし、マイペースなアメリカ人がそう人の言う事を聞く訳がない。車をやっと迎えに行けたのは、確か、それから10日くらい後の事だった。
地下鉄を降りてバスを乗り継いでとぼとぼと修理工場に向かう。たどたどしい英語で「銀のシビックを引き取りに来た」と伝える。無愛想なお姉ちゃんにキーを渡される。そして、表にいるお兄ちゃんにキーを渡して車をガレージの外に出してもらう。
ぴかぴかの姿に戻った車との再会だった。同じアパートに住んでいた日本人の知り合いが、「アメリカ人は車バカだから、修理はうまいよ、だから、安心して待ってて大丈夫」という言葉どおりだと思った。
良かった、と思う以上に、事故を起こした日に芽生え始めていた気持ちに正直になっていた。
一生、この子の面倒をみよう。
もうこんな目に合わせないから、大切にするから。そういう思いで私はハンドルを握り、アパートまでの帰路についた。
そう、その時点から、うちのコは、「私の車」ではなく、「私のコ」になっていたのだ。
単なる移動手段ではなくなっていた。
text by shibizou | 2005.10.06 | [ 出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 ] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
September 29, 2005
第4回:2度目の路上で初切符、総額185ドル
出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 by shibizou
恐怖の初路上デビューを終えた週明け、何とか運転が出来るようになった事を、ディーラーに同行してくれたスタッフに報告した。そうしたら、新たな試練が私に降りかかってきた。
「ストロードライブに乗れたのならもう何処を運転しても大丈夫ね。
じゃぁ、今度の週末うちに遊びに来ない?」
などと言うのだ。
無理ですから!まだ怖いですから!と、顔面蒼白になる私を尻目に、「あのね、道は凄く簡単でね、」と言いながら彼女の自宅までの略図をさらさらと書き始めるスタッフ。
そしてあっと言う間に地図は出来上がり、
「はい、じゃぁ土曜日の7時にうちに来てね。30分くらいで着くと思うよ」
と、彼女は私にそれを差し出した。
「はい、わかりました、ありがとうございます!」
と、嬉しそうに振る舞いながら内心は冷や汗たらたらである。
早速、事務所にあるボストン近郊の地図とその略図を見比べて見る。
道は確かに単純だが、当時の私にとっては、地図の同じページの中に無い場所は遙か遠い所で、しかも1人で30分も運転しなければならないなんて、と思うともう恐怖という感情しか沸いてこなかった。
しかし、それも訓練のうち、と思い、覚悟を決めて土曜日を迎え、挑んだ。
幸いアメリカの道には全て名前が付いているので、そのスタッフのアドバイスに従い、
最初の道→(左折)→次の道→(右折)→次の道・・・
という感じでポストイットにメモ書きし、運転席から見えやすい所に貼って、いざキーを回しヘッドライトを点灯させた。はずだった。
何かメーターの表示が暗いな、と思いながら運転をしていたら、アパートを出てから3分もしないうちに、パトカーが警告灯を回転させながら私の後ろにぴったりくっついてきた。
ボストンではやたらとそういうパトカーを見かけるので、特に何でもないだろうと思い、私はどんどん進んで行った。
そうしたら、パトカーの様子が変わった。
ウィンウィンサイレンを鳴らし、乗っている警官がマイク越しに何か怒鳴り始めたのだ。
ったく、噂通りボストンの警察ってうるさいなぁと暢気に思いながら更に走って行ったら赤信号にひっかかってしまった。
その途端、パトカーから警官が降りてきて私の車のガラスを叩き、窓を開けろと言う。
何事かと思って開けると、道端の邪魔にならない所に車を動かせというジェスチャーをする。
へ?何で?急いでるのに?と思いながらも車を寄せると、待ってましたと言わんばかりに物凄い勢いで怒鳴り始める警官。
ただでさえわからない英語がさらにわからない。
とりあえず一番最初に理解したのは、ヘッドライトが消えているということだった。
つまり無灯火運転。
どうりでメーター表示が暗かった訳だと納得している私に、警官は更に怒鳴り続ける。
「Red line!」としか聞き取れなかったが、信号を指さしながら言っているので、どうやら赤信号(lineではなくlightだったのだ)の事を言っているのだと理解出来たが、それが私に何の関係があるのだ?と思って聞いていたら、どうやら私は赤信号無視をもしていたらしい。
へ?何処で?と悩んだが、確かに、物凄く紛らわしい信号配置の箇所があって、その手前の信号を見落とした可能性がある、と納得した。
路上2回目で2つも交通違反か、と、突然の出来事に戸惑いながら、警官の言われるままに免許証を渡し、切符が切られるのを待つ。
そして渡された切符を見てびっくりした。
確か、無灯火が50ドル、信号無視が35ドル、その他に「警告無視」という項目があって、それが100ドル。
つまり、合計185ドルを請求されたのだ。
納得出来なかったが当時の私には言い返す英語力など無く、おとなしく切符を受け取り、スタッフの家に「警官に交通違反で捕まったので遅れる」という旨連絡して彼女の家に向かった。
そして、彼女の家に到着してからその騒動についてひととおり説明し、そこで初めてアメリカの道交法について私は学んだ。
標識と信号さえ守っていればいいというものではなかった。
もし、パトカーが警告灯を回しながら自分の後ろにくっついてきたら、有無を言わずに車を止めなければならないのだということを初めて知った。
そして夜も更けて、帰路についた。
さっき捕まった道をもう一度走らなくてはならないのは癪だったが、遅い時間になっていたので交通量はかなり少なく、往路に比べてかなり楽な帰り道だった。
これなら運転出来るかも、と、少し自信がついていた。
それ以来、幸い警察のお世話になることは無かったのだが、ライトが点灯しているかどうかについては執拗に気にする様になり、185ドルという高い授業料を払って、私は優良ドライバーへの道をひた走る事になるはず、であった。
text by shibizou | 2005.09.29 | [ 出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 ] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
September 22, 2005
第3回:いざ納車、ペーパードライバーからカーオーナーへ
出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 by shibizou
車を迎えに行く前に入れた電話ではすぐに受け取れる様な事を言っていたのだが、いざ足を運んだら、まずディーラーの建物の中で数十分待たされた。
その間、持っていった単なる厚紙製の仮ナンバープレートをこのまま取り付けたら雨の日はどうしたらいいのだ?、などと担当のキースと話をしていたら、突然彼は得意気な顔をして「ちょっと待って」と立ち上がり、ナンバープレートを持って奥の方に引っ込んでしまった。
おぃおぃキース、それをどうするつもりなの?と心配して待っていたら、彼はそれを透明のビニールにくるんで持ってきてくれた。
「これで雨が降っても大丈夫!」
「キース頭いい!」と、スタッフと一緒にしばしはしゃぐ。
そして、「準備が出来た」というので外に出たのだが、なんとそれから2時間も待たされてしまった。さすがアメリカ、適当過ぎる。
その間、特徴的な1台の車が我々の目の前に現れた。
セダンより3ヶ月遅れて発売になるシビック・クーペ(日本未発売)の・・・何と言い表したらいいのかわからない、強引に言えば柿色ゴールドだった。
中国人らしき若い男性がうっとりした目つきでそれを見て一言「Cool!」とつぶやいていた。
中国人は金色が好きだとは聞いていたが、まさかこれを見てcoolと言う程好きとは、と、驚いていたら「君がこれを買うのかい?」と話しかけられた。
買いませんから!
私が買うのはシビック・セダンのシルバーですから!と、物凄い勢いで英語で言いたかったが、当時の私にそんな語学力は無く、困った顔「No.」と言うのが精一杯だった。
もうそろそろしびれが切れそうな頃、自分たちが待っている所より高台になっている整備工場の方から銀色の物体が姿を現した。
乗っているのはキースだ。そう、「私の車」がやっと来たのだ。
キースはその車を我々の目の前に止め、運転席から降り、ドアを開いたまま私に「ここに座って下さい」というジェスチャーをした。
乗り込むと、キースはデジカメで私と私の車を撮った。
「congratulation!」
キースはひとことそう言い、私に握手を求めてきた。
もう、外で2時間待たされた苦痛などすっかり忘れ、私はその差し出された大きな手を握った。
アパートの駐車場までは、一緒に行ったスタッフに車を運転してもらった。
免許を取ってからまる10年運転していない、そもそも道を知らない私が運転して持って帰るのはまずいだろうということでお願いしたのだ。
その次の週末、私は事務所の後輩の指導を受けて、10年ぶりの路上運転を試みた。
10年ぶりにして異国、しかも左ハンドルである。今考えると私も無謀だが、そんな恐ろしい状況に立ち会ってくれた後輩も後輩である。
彼がいなかったら私は今頃どうなっていたやら。改めて大感謝。
とりあえず、その当時住んでいたアパートの周りをぐるぐる回れる道があったので、そこをひたすら右周りに10周くらい走っただろうか。
そして、ブレーキングが幾分スムーズになった所でアパートに戻る道とは反対の左側に曲がり、ひたすら真っ直ぐ行った所にある郊外のシーフードレストランに向かった。
運転指導のお礼にランチを奢る事にしていたのだ。
しかし、私の予想以上の運転のヘタさに、その時点でランチタイムと言うにはかなり遅すぎる時間になっていた。
ひととおり食べ終わってから後輩がおもむろに時計を見てびっくりし、次はこちらを驚かせてくれた。
「やべぇ!俺、ガバメントセンター(ボストンの割と中心地)の前で5時に友達と待ち合わせなんですよ。今から電車で行ったら間に合わない!先輩、車で送ってもらえますか?」
・・・とことん命知らずの後輩である。
大丈夫か?知らないぞ?と思いつつ、私は後輩の言うがままに道を曲がって曲がってガバメントセンターへと向かい到着した。
そしてここで後輩を降ろして・・・と思ったが、帰り道を私は知らない。
地図を見ても分からない。
カーナビなんてものは当時普及してない。
仕方無いので、また後輩にアパートまでの道をナビってもらったのだが、これがとんでもないコースだったのだ。
ふんふんそれで次は?と後輩の指示を待ちながら運転していたら、黄色い厚手のビニール地に「CAR ONLY」と黒々と書かれた横断幕が視野に入ってきた。
おお、これが噂に聞くストロードライブ(ボストンのバイパス的存在)か、と感慨にふけっていたら後輩の指がその横断幕の方に向いている。
へ?私にここに乗れと?
ここ、60マイル(100キロ)くらいで走る所よね?と半ばパニックになりながら何とか合流し、それからさらにパニックになる。
物凄いくねくねの3車線なのだ。
真ん中に乗ってしまったので、両側から車が迫ってくる。
途中から合流車が物凄い勢いで入ってくる。
怖い怖い怖い怖い怖すぎる。
それなのに後部座席から暢気に話しかけてくる後輩の友人。
会話に答えるべくつい後ろを向いてしまったら、助手席に乗っていた後輩と友人が同時に「ギャー!」と叫ぶ。
何事かと思って前を見たら、いつの間にか車線が減って私は左端の車線に乗っていて、あと5メートルくらいで反対車線とを仕切るコンクリートウォールに激突する所だった。
慌ててハンドルを切り車線に戻る。物凄い安堵の空気が漂った。路肩が広くなかったらどうなっていたことやら。
そんなこんなで何とかアパートまで辿り着き、父親に似てバックからの駐車が苦手な私は、早速左フロントドアを邪魔な柱にガリガリと擦りながら何とか枠内に車を納めた。
新車なのに!と思って慌てて見たら、北米仕様車は、ドアはぶつけるものという前提で作られているので、実際に擦っていたのはドアバンパーの部分だった。これならこの部分だけ売るときに取り替えればいいや、と、自分に言い聞かせて私はガレージを後にし、恐怖の初ドライブを終えた。
これ以上の「トラブル」はもう起こらないだろうと、その時は思っていた。
text by shibizou | 2005.09.22 | [ 出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 ] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
September 15, 2005
第2回:恋とは、予想も予告も予定もなく落ちるもの
出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 by shibizou
ボストン生活が落ち着き、シビック・セダンのフルモデルチェンジが市場に出回り始めて半月が過ぎた2000年10月5日、英語が達者な現地スタッフに通訳をお願いしてディーラーに足を運んだ。
ショールームの一等目立つところに、新しく出たばかりだからだろうか、金のシビック・セダン2001年モデルが飾ってあった。
第一印象は、なんか老人くさい、そんなものだった。
これを私は買わねばならないのだと思うと気が滅入ったが、仕事の為、そして生活の為なのだから仕方が無い。
そう思う私の目に飛び込んできたのは、奥の方にあったS2000だった。
ホンダのショールームなので当然そこにあると言えばあるのだが。
フラッグシップカラーのシルバーではなく黒だったが、そのセクシーさに何ら変わりはなく、私は吸い込まれるようにS2000に乗り込んでしまった。シビックには目もくれず。
そして、そのシートの座り心地に陶然としてしまった。
座り心地なんてものではなかった。抱かれ心地だったのだ。
そのまま座っていたかった、が、私には現実が待っていた。
「シビック・セダンのシルバー」を買うこと。
老人くさい金のシビックを横目に、キースという店員さんに「銀の実車はありますか?」と訊いたら、彼はおもむろに向かって左の方向を指さした。
今でも鮮明に覚えている。開いているドアから試乗車がずらりと並んでいる様が見えたのだが、その中に2台、銀色のシビック・セダンがちんまりと佇んでいた事を。
「可愛い!」
金のそれとはあまりにも違う印象に驚いた。とにかく、かわいかったのだ。
ウェブサイトで見た、車全体のフォルムが見える斜めからの写真とは違い、真っ正面から見たシビック・セダンのシルバーは、可愛くて可愛くて仕方なかったのだ。
渋々の気持ちは、見た瞬間に飛び去っていた。つまりは一目惚れをしていた。
早速キースと商談に入った。ディーラーとは値引き交渉をした方がいいという事で通訳のスタッフに頼んだのだが、出たばかりの新車ということで値引き額はたったの50ドルだった。
いや、その時点で値段はもうどうでも良かった。私はこの車を買うのだとわくわくしていた。
商談は順調に進み、何色を買うのだ?という話になり、シルバーと答えた。
本当は赤があれば赤が欲しかったんだけどね、と言うと、「赤は目立ってスピード違反とかすると捕まりやすいよ」という、ちょっと道徳的によろしくないアドバイスをもらったり冗談を交えながら売買契約書にサインをした。
2000年10月5日、「私の車」がこの世に誕生した瞬間だった。
その時は、これが人生で一番高い買い物になるのだと感慨にふけったものだった。
契約書へのサインが終わり、ショールームの外に出て改めてシビック・セダンのシルバーを見た。
一度可愛いと思うと、どこからどう見ても可愛く見えて仕方なかった。
この車が私のものになる、そう思うと嬉しい気持ちを覚えた。
しかし、その喜びはしばらくお預けとなった。
出たばかりの人気車種ということで、納車に3週間ほど時間がかかると言われたのだ。
3週間。それは約1ヶ月ではないか。
そんなに長い時間待たされるのかと肩を落としたが、改めてシビック・セダンのシルバーを見て、思った。
この子の為なら待てる、と。
納車待ちの間、ナンバープレート取得の手続きを、一緒にディーラーに行ったスタッフにこれまた頼み、そしてとりあえず仮のプレートが届き(アメリカの場合、最初から金属製のプレートが発行される訳ではなく、まずは厚紙で出来た仮ナンバープレートが発行される。
本物のナンバープレートが出来るまでかなり時間がかかるのだ)、とうとう納車の日が来た。
10月の末になったボストンは既に相当寒かった。寒空の下、またそのスタッフと一緒に車を迎えに行った。
「ボストンを離れるときに売ったらいくらになると思いますか?」
「シビックは人気車だから、結構な値段で売れると思うよ。1万ドルは行くんじゃない?」
そんな相談をしながらの往路だった。
妥協した、という気持ちは無くなっていたが、今持っている愛着はまだ欠片も芽生えていなかった。
text by shibizou | 2005.09.15 | [ 出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 ] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
September 08, 2005
第1回:別れる事が前提だった。
出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 by shibizou
まず、私の紹介写真を見て「どうして助手席側に乗って撮影?」と思われた方もいるかと思いますが、この車は北米仕様のシビック・フェリオなので、運転席が左側なのです。
ボストンで出会って、あまりの可愛さにどうしても手放すことが出来ずにそのまま日本に持ち帰ってきてしまい、そのあげく、車の為に「屋根付き駐車場を借りたい!」と思う一心でマンションまで買ったという親バカぶりの軌跡をこのコラムでご披露することになりました。
このペンネームは、私の愛車(もはや愛息ですが)の名前である鮪蔵(しびぞう)から由来しています。これから12回、おつき合いのほど、宜しくお願い致します。
では、私と鮪蔵の出会いについて、そのきっかけを。
2000年の春までの私は、のほほんと東京での生活を送っていた。
しかし、ゴールデンウィーク直前のある日、その平和は突如崩された。
ボストンへの転勤の内示が来たのだ。
それまで海外旅行はおろか、本州から出た事さえ無い私には晴天の霹靂だった。
つまり、国際線初乗りにしてそのまま現地暮らしをせよというお達し。
周りからは無謀だと散々言われたが、決まってしまった事は仕方ない。
腹を据えて準備に取りかかる事にした。
内示から赴任までの期間は3ヶ月。
その間に現地で何が必要なのかをあらかじめ知っておこうと前任と連絡を取ったら、一等最初に言われたのが「車を必ず買え」という事だった。
内示が出た時点での周りからの噂では、ボストンは車が無くても暮らせる街という事で、ペーパー歴10年の私でも十分暮らせるだろうという事だった。
それなのに車を「必ず」買えとは一体どういうことなのだと首をかしげたが、いざ車を買うことになったら・・・と、心に決めていた車はあったので、そのアドバイスには乗ることにした。
その車はホンダのS2000。
しかし、S2000はMT車だ。エンジンのかけ方とハンドルの切り方くらいしか覚えていない私に乗りこなせる訳がない、というか、私如き超初心がS2000という素晴らしい車を運転する資格なんぞあるのか?という疑問が払拭出来なかった。
他人の視点でも考える。
こんな超初心者がいきなりS2000を買うなんて許せるか。答えはノーだった。
私にとってS2000はそんな軽い車ではなかった。究極の憧れだった。
更に、前任から「セダンでないと出張者が現地に来たときに役に立たなのいで買うならセダンにしろ」と言われた事もあり、私はS2000を諦めた。はかない恋だった。
そして、アメリカの車サイトとして有名なブルーブックとにらめっこする日々が始まった。
「車は道具」と割り切り、アメリカを離れるときになるべく高い値段で売れる初心者にふさわしい車を探した。
しかし、1点だけ譲れない所があった。ホンダ車であるということだ。
1997年、自分と同い年のジャック・ヴィルヌーヴがワールドタイトルを決めた年からF1にハマった私は、遅すぎるF1への開眼を取り戻すべく関連書籍を読み漁っていた。
そうなると避けて通れないのが、ホンダF1チーム初代監督の中村良夫氏の著書だ。
2000年当時はまだ、日本のF1の歴史はそのままホンダF1の歴史だった。
それもあり、私の中には「車=ホンダ」というイメージがインプットされていた。
アメリカ・ホンダと日本のホンダはラインナップが違う。
大型車大好きなアメリカ向けホンダに、小さくてかわいい車種など皆目無い。
その中で、若い女性が乗ってもおかしくない、人気のあるセダン。
そうなると自ずと選択肢は一つしか無くなっていた。
シビック・セダン、色はシルバー。
そうこうしているうちにあっと言う間に月日は過ぎ、ボストンへの転勤の辞令が正式に出て、2000年7月27日、私は機中の人になった。
初国際線にして乗り換えあり、しかも乗り換えるはずの便がキャンセルになり、予定より5時間遅れて到着するという波乱から、私のボストン生活は始まった。
少し住んでみて、本当に、ボストンは車無しでも生活出来る街だった。
それでも周りから「早く買いなさい」とせかされた。
しかし、私の足はディーラーには向かなかった。
生活のセットアップに時間がかかったせいもあるが、2000年の9月にシビックがフルモデルチェンジされるという情報を得ていた事を一番大きな理由にしていた。
どうせ買うなら最新モデルがいいから、と、私は車の購入を出来るだけ先送りにしていた。
その選択が正しかったのか否か。答えはもちろんイエスだ。
そうでなければ私は今、このコラムを書いていない。
一生ものの恋に落ちるまでのカウントダウンが、始まっていた。
text by shibizou | 2005.09.08 | [ 出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 ] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
September 01, 2005
お知らせ
出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 by Car@nifty編集部
9月8日より連載開始予定です。
お楽しみに!
text by Car@nifty編集部 | 2005.09.01 | [ 出会いから溺愛へ、親バカへの軌跡全記録 ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)





